» バスケット全般のブログ記事

暫くこのブログを活用していませんでしたが、ソロソロと再開したひと思ひます。

実を言ふとパスワードを忘れてまして(^^;

 

今まではFacebookで色々と書き込みしましたが、保存すると言ふことではやはりブログの方が良いと思ひまして。

 

第一回目は、私の原点である月刊専門誌「Basketball Illustrated(バスケットボール・イラストレイテッド)誌」(通称「イラスト」)について書きます。

 

前回の東京オリンピックの翌年1965年、大学バスケ界名門の東京教育大学(以後 教育大)バスケ部OBの機関紙として企画されたものです。

OBである吉井四郎氏(前年の東京オリンピック、日本ナショナルチームのヘッドコーチ)の技術論を広めたいと言ふことがあったようです。

*ナショナルチームとは、現在は日本代表と言はれています←つまらない言い方ですね!!

 

教育大OBの中心的存在だった鈴木正三先生(当時学習院大教授)が、吉井先生の子分である笠原成元氏を中心的執筆者として企画されました。発刊当時は隔月刊でした。

大会を中心とした戦評と技術指導の2本立てでした。

イラストは当時画期的な雑誌でした。
本のサイズからして他とは違います。当時はB-5版と言ふ今の週刊誌と同じ大きさが主流で、編集の仕方では 雑誌は殆どが今の週刊誌同様、写真が奇麗な「グラビア・ページ」と文字が主流の「本文」とに分かれていました。グラビアの方が製版に価格が高いため、写真ページを別扱いにしてたわけです。

 

その当時、今から50年以上も前にA4版全ページ グラビア印刷でしたから、画期的です。

今考えれば、、

そこで上の発刊当時の表紙を見てください。
上段左から 創刊号(Vol.1 No.1)は直ぐにバスケと判るボールをアレンジした写真ですね。

 

真ん中 当時のレフリー・シャツのゼブラ模様を使った新しいデザインになってます。

 

右 [Basketball Illustrated]のロゴが変わりました、アメリカのスポーツ週刊誌[Sport Illustrated](通称スポイラ)のパクリですね(笑)

表紙デザイン的には一番貧弱です(笑)

 

そして下段の表紙をよく見て下さい。

左から Vol.1 No.1 、Vol1. No.2、Vol.1 No.3と書いてあります。

つまり創刊3号は2個あるんです(^^;

と言ふのは、生臭い話になりますが、最初の創刊号を担当した人が年間購読料を持ち逃げしたんです。

それで編集部は大変だったようですが、当初営業を担当してた清水陸生氏が借金を背負った形で引き継ぎ、再びVol.1 No.1から始めた、と言ふわけです。

 

その当時、そんなことを知らない大学1年生の私はフラッと編集部に遊びに行き、ズルズルとそのままバスケ界にのめり込んでしまいました(笑)

 

編集部と言ふか事務所は原宿の皇室駅の裏側辺り、渋谷区原宿3丁目296 小野設計事務所の1階にありました。今は区画整理され、行っても多分判らないと思ひます。

編集部と言っても清水氏と高校の後輩で浪人していた久保島(?)君しか居ない状態で、そこにNBAの雑誌があったことに驚きました、何しろアメリカのバスケなんて、オリンピック以外知りませんでしたから(^^;

 

最初のVol.1 No.1の内容は前年のオリンピック・メンバー(当時は未だ女子の競技は行はれず、男子だけでした)が紹介されていましたので、それを見ましょう、古い方なら「懐かしい!!」と言ふでしょうが、殆どの方は「知らない!!」でしょうね(笑)


左から紹介します。

奈良 節雄(175cm) 立教大→日本鉱業 真面目な選手、3枚腰と呼ばれジャンプがグイングイングインと3段階で伸びると称された小さいフォワードでした。

 

若林 薫(178cm) 教育大→日本鋼管 当時では大型PG。BBIQが高く冷静でクレバーな選手。引退後は鋼管のコーチにもなった。その時技術解説を連載していただき、私が担当しました!

 

志賀 政司(175cm) 明治大→日本鉱業 この人も小さいがよく跳ぶフォワード。真面目な人です。

 

中村 邦彦(189cm) 明治学院大→日本鉱業 大型シューター バスケ界では無名の大学から実業団の名門チームに入ったシンデレラ・ボーイ、風貌からエリックさんと呼ばれてました。日本実業団連盟の理事もされ改革的な人でした。

海保 宣生(168cm) 立教大→住友金属 168㎝のPG。良く動き、ATBが得意でシュートもねじ込むガッツ溢れる好選手で、小さい選手のあこがれの的でした! 引退後はJリーグ鹿島の社長やバスケ協会や実連の理事等もされ期待してたのですが、アイデアマンぶりを発揮することもなく、亡くなられました。実連時代は可愛がってもらいました。

 

梅 勝夫(182cm) 立教大→積水化学 若いシューターでした。日本リーグ1部チームへ行ってればもっと活躍できたはずでしたが、、

 

増田 貴史(183cm) 慶應義塾大→住友金属 天才的シューター 現在木内、引退後は日本協会の理事長になっている。

 

藤江 精二(191㎝) 日本大→三井生命 大きいのに動けて走れるフォワード

 

諸山 文彦(186cm) 日本大→日本鋼管 元祖ミスターバスケット。オールラウンドのフォワード、外からのシュートも入る。今でも時々プレーしているとか、、

 

小玉 晃(196cm) 教育大→日本鉱業 この身長で動けて走れて、当時は最長身者として期待された。日本鉱業にはガードで166㎝の児玉さんが在籍していて2人のコダマでしたが、ガードの児玉さんは「チビダマ」と区別してました(笑)

 

角田 勝次(196cm) 明治大→日本鉱業 小玉と共に196㎝で日本のゴール下を守りました。完全なセンター・タイプです。

 

江川 嘉孝(183cm) 明治大→八幡製鉄 諸山さんと同期で同身長のガッツ溢れるフォワード。外のシュートもインサイドでもどこでも得点できる選手で、私の憧れの選手でもありました!

 

今回はここまでにしておきましょう。

次回は 明日か明後日にも、、

今日はバスケットボールが作られた日です。

Happy-BD-BB

何故22日に書き込むんだ、と突っ込まれそうですね(笑)

それは下にも書きましたが現地時間の21日と言ふことで、日本時間では21日午後からになるからです、って細かすぎる(笑)

世界で一番競技人口が多いスポーツで、一人の人間によって創作されたと言ふ競技は他に無いのでは!?

ここの読者の方なら(最近はそれほどUPしてないのでいないかもしれないけど(汗))ご存知と思ひますが1891年12月21日(現地時間)の朝、初めて名前が無いスポーツが行はれました。

場所はマサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCA体育館でジェームス・ネイスミス氏によって、冬場のフットボールに替わる動きの多いスポーツとして発明されたわけです!

James_Naismith_with_a_basketball

日本人にとって嬉しいのは、その最初にプレーした18人の中に「石川源三郎」と言ふ日本人が居たことです。
私は10年以上も前から提案していましたが、これは教科書に掲載すべきだと思ふのですが。

私がアシスタント・コーチを務める鎌倉ブレイカーズで新しくオフィシャル器具を揃えることになったのですが、オルタネーティング・ポゼッションルール(ヘルドになった時のボール所有権も持つチームを示す)用器具が数千円すると聞いたので、高価過ぎると思い、「それなら俺が作る」って言っちゃった(笑)

まあ大した工作じゃないので、作ることは問題ないのですが、規則と言ふか設計図と言ふか仕様書が無いので判らない。

日本バスケットボール協会のサイトを探したが、どうしても見つけることが出来ない(汗)

多分、いや絶対にルールブックにしか書いてないのでしょう。

他の団体、FIBAとかNBAは勿論、他の競技もルールは本物のルールをサイトで見ることが出来る。

だけど日本バスケットボール協会のサイトでは掲載してない。

昔聞いたのは、資金稼ぎのためルールブックを売らんがためにサイトに掲載しない。

馬鹿じゃないの?

コレで普及だなんて良く言えたもんだ(怒)

 

まあそれはさて置いて、、、

矢印の形やサイズ、全体の大きさも判らない。

世界ミニのガイドブック(?)では矢印だけだったようだけど、モルテンで市販してやつは矢印の形状が変わってるし「POSS.]なんて訳の分からない文字がかかれてるし(笑) (意味は判ってますよ)

と言ふか要は方向がハッキリ見えれば良いのだろう、と勝手に解釈して作ることに決めました(笑)

当初は接着剤付きスチレンペーパーにプリントアウト矢印を貼れば良い、と思ったのですが、表面をカバー出来なく汚れそうなので、コレは保留(1)。

次は「カバー」を課題にして考えて、プラスチックのカバーケースを思いつきました。

上辺をテープで止めれば簡単と思いましたが、Facebookで平原さんと澤田さんがアイデアを出してくれました。

大衆食堂や居酒屋のテーブルに置いてあるメニューを入れてある透明のプラスチック製品です。

fotofure-mu

SEKISEI フォトフレーム サインスタンド 両面用 A4 横置き SSD-2767 SSD-2767-00(規格:A4横置き・両面用 サイズ:幅297×奥行85×高さ215mm)

コレは多分「100均」が得意だろうと行ってみた。

ところがハガキ大程度の小さいのしか無い(汗)

ひょいと隣を見たら事務用品で既に三角形になってるプラスチックの案内板が有った。

 

ただ巾はあるものの、高さがない。巾25㎝、高さはたったの8㎝(汗)

さあどうする??

でも矢印が有って方向が判れば良いのだから、、、、OKにしよう(笑)

と言ふことでDAISOの「V-TYPE CARD STAND No.11」を購入!

POSSアローカードスタンド

後は簡単、専門のイラストレーターを使って矢印作り。

POSSアローのデザイン

色々考えましたが、先細りなので大きめにした矢に決定。

コレに影をつけてプリントアウト。

POSSアロープリントアウト

カットしてカードスタンドに差しこむだけ。

POSSアロー差し込み2

コレで完成!

POSSアロー完成

あっけなく終わりました。

プリントアウトしてからたったの5分!!!

掛かった金額は、、、、、

税込み108円!!!!

皆さんもどうですか?

矢印デザインをPDFで送りますよ!!

今の人には海保さんと言ってもピンと来ないでしょうが、私の年代、特に小柄なガードにとってはスーパースターでした。

小さいけどスピードあって、大きな選手を抜いてゆくプレーには憧れましたね。

いまならアイザイア・トーマス、昔ならマグジー・ボーグスですか。

海保氏イラスト創刊号

東京都墨田工高(?)、立教大から住友金属でプレーした東京オリンピック・メンバーでした。

現役引退後も住金チームのコーチや部長をされたと思います。

その後暫くしてJリーグ鹿島アントラーズへ出向され社長になり、その後モンテディオ山形へ移られたようです。

海保さんとは日本実業団連盟時代一緒に理事をしたことも有り、日本バスケット改革についてよく話し、可愛がってもらいました。

その後バスケット界から離れましたが、この10年ほどバスケットの会場で度々見ることが有り声を掛けると元気な声で「おーあんどう 元気か!」と言はれ嬉しかったものです。

今回のタスクフォースで取り上げて欲しかった人材でした。

通夜

日時:平成27年4月22日(水)18時00分から
場所:昭和セレモニー シティホール市川
住所:千葉県市川市市川1-12-4
電話:047-704-1000

葬儀

日時:平成27年4月23日(木)12時00分から
場所:通夜と同じ

詳細は下記サイトを参照して下さい。

http://www.montedioyamagata.jp/news/y-2015/n-00004181/

アメリカの大学バスケット界の巨匠、元ノースカロライナ大のディーン・スミス・コーチが83歳でお亡くなりになりました。

大学での勝利数、優勝回数だけで言へばTopコーチでは有りませんが、コーチとして元UCLAのジョン・ウッドゥン氏と並び称される偉大なコーチです。

いやコーチと言ふより人物と言ったほうが良いでしょう。

ディーンスミスと記念撮影

<写真 左から私、スミス氏 ナハーズ氏 通訳伊藤さん>

皆さんご存知のマイケル・ジョーダンを育て、ジョーダンはコーチ以上の思いを抱いている人で、何かにつけ母校を訪れスミス氏と会っていたようで、スミス氏もジョーダンを可愛がっていたようです。

UNC(ノースカロライナ大)を名門大にしたばかりではなく、多くの優秀なバスケット選手と優秀な学生を育てました。

彼とは東芝の関係でインタビューさせてもらったことが有ります。当時東芝はUNCのアシスタント・コーチのデーブ・ハナーズ氏が毎夏キャンプのコーチに来ていた関係で、吉田さん(現筑波大監督)からハナーズ氏を紹介してもらいそこからスミス氏のインタビューが実現しました。通訳の伊藤さんはUNCの学生で、その後音信不通になりましたが、現在は慶應で英語の先生をしてるとか聞いたことが有りますが、不明です。

スミス氏は忙しい方で、約束の時間がずれてしまいましたが、いざインタビューとなったら、約束の時間より長く答えていただいた記憶があります。

質問の中で、特に記憶に残っているのは「リクルート(選手勧誘)する時の基本的考えは?」と言ふ質問に

「大学を卒業出来る選手を選ぶ。」

当時はNBAへアーリーエントリーする選手は少なく、「途中でNBAへ行かず大学へ残ってくれ」と言ふことでは無く、学業もシッカリやって卒業すること、と言ふことです。

他の強豪校ではバスケットの成績が第一と言ふ大学やコーチがいましたからね。

そして彼の自慢は「NBAへ一番多くの選手を送り込んでいる。」ことでは無く 「卒業後に大学院へ行く選手が多い。」でした。

現在はそれほど使われてないようですが、有名な攻撃法(?)に「フォーコーナー」と言ふのが有ります。

昔学生にはショットクロックが無く、攻撃時間を長くしたり、ストーリングのため、スティールされないように、又は簡単にファールゲームされないようにするため、ハーフコートの4つ角の選手を配置して、ドリブルとパスの上手いガードが逃げ回れるようにしたフォーメイションですが、彼が作り出しました。

あまりにも有名で、キャンパスのあるチャペルヒルの街に「FOUR CORNERS」と言ふレストランがあります(笑)

下はメニューの表紙。記念に貰って来ました。

4Cornerメニュー

逸話は多すぎて、取り合へずここまで。

コボちゃん14_11_711月7日(金)読売新聞朝刊

植田まさし氏の「コボちゃん」が掲載されてますが、苦境に立つ日本バスケットボール界を応援してくれてます。本人は応援してるって気持ちではないかもしれませんが(笑)

逆風が吹き荒れる日本スポーツ・メディアに「暖かない風」を送ってくれました。

バスケットボールの繋がりで演出家の菅野 一人さんから招待していただき、「FAB FIVE THE MUSICAL」と言ふ舞台を見てきました。

私にとって人生初のミュージカルです。

題名の通り、バスケットを題材にしたミュージカルです。

FAB Fiveポスター

Fab Fiveと言へばみなさんはお分かりですね。

1991-92シーズンのミシガン大学 先発5人が全員1年生ながらシーズン開幕から快進撃し、遂にはNCAAトーナメントファイナル(決勝)進出と、全米で大きな話題となったチームのことです。

英語的には、FABULOUS(驚異の)FIVE(5人)」の意味で、構成はクリス・ウェバージュワン・ハワードジェイレン・ローズレイ・ジャクソンジミー・キングでした。

 

その彼らのストーリーかと云ふと、そうではありません(笑)

どちらかと云ふとスラムダンクの三井的名ストーリーです。

DSCN8853

物語は、父親が全日本のスーパースターだったことから、バスケットで#1になることを宿命付けられた主人公「三崎 歩」と幼友達で天才の「新庄 空」を中心に展開される。

日本一になりたいがためにライバル高へ転校した新庄。

#1に成れなくて挫けた三崎と新庄が居なくなり、勝てなくなった雷門東高バスケット部が廃部寸前にまで追いやられた。

しかし天才と尊敬していた先輩の交通事故死をきっかけに再びバスケットをやり始める、と言ふストーリーです。

 

ミュージカルと言ふのでもっと歌が多いのかと思ったら、意外と少なかった?

バスケット・シーンは経験者が多かったため、心配なく見れました。尤も代々木公園のコートでかなり練習したようですが。

バスケット・シーンの割合は多くもなく、少なくもなく、良かったのではないでしょうか?!

ミュージカル的に素晴らしいのか、普通作なのかは判りませんが、私は十分に楽しめました

 

主人公・三崎 歩役にはちゃんとバスケットをやれる役者と言ふことに菅野さんは拘わり、中学時代は長野県MVPに選ばれ、佐久長聖高校時代は国体メンバー、と言ふ生粋のケージャー「古越 健人」さんを抜擢しました。

その菅野さんは、「日本一バスケ好きな演出家」という立場で、2020年東京五輪へ向け「芸術方面から日本のバスケを盛り上げる」ということで、いろいろ活動していく、と言ふことで、私もこれから協力して行きたいと思ってます。ちなみにミニバスからの経験者です。

 

そう言へば、神奈川県のウィンターカップ代表校で鈴木君が監督している法政二高とゲームをしたそうです、随分と無謀なことを(笑)

 

品川新馬場の六行会ホールで12月1日(日)まで毎日14時~と19時からの2公演行ってます。

京急・新馬場駅からすぐです。

 

 

 

 

 

2013-11-28 16.23.13

終演後 菅野さんとキャスト達とパチリ!

2020年オリンピック、まさかと思ったけど東京開催が決定しました。

めでたい!!

これでバスケットは予選無しで出場できる!?!

 

となると次のオリンピックは諦めて7年後に向けて強化に取り組んでもらいたい。

数年間は負け続けても良いから基礎をしっかりと造って,中期的ビジョンの元に強化して欲しい。

その為には良いコーチが必要だけど。

私としては元横浜ビー・コルセアーズのレジ―・ゲーリーが最適だと思うけど!

 

その時の選手の年齢としては、男子は上は32歳から下は20歳まで、女子の場合は、上は30歳から下は18歳まででしょうね。

となると7歳引くと、現在男子25歳、女子が23歳あたりがMaxですかね。

それに当てはまる選手を現ナショナル・チームを中心に選んでみましょう。

男子は比江島 慎(アイシン)金丸 晃輔(アイシン)ショーン・ヒンクリー、伊藤 大司(トヨタ)並里 成(?)田中 大貴(東海大4年)宇都 直輝(専修大)張本 天傑(青山学院大)橋本 晃輔(東海大)ベンドラメ礼生(東海大)渡辺 雄太(尽誠学園卒)当りが中心となり、ベテランが数人、若手が数人入る構成でしょうか?

並里顔写真伊藤大司

女子は高間宮 佑圭(JX)渡嘉敷 来夢(JX)山本 千夏(富士通)篠原 恵(富士通)町田 瑠璃唯(富士通))宮澤 夕貴(JX) 長岡 萌映子(富士通)三好 南穂(シャンソン化粧品)を中心にベテラン・ガードや若手で構成されるのでは。吉田 亜沙美(JX)は入って欲しいけどね。

長岡萌映子11ラムちゃん

 

7年後なので女子は現在の中学生が入っているでしょう、男子も中学生も候補に挙がる可能性も有りますね。

これからは中学生、高校生の動向にも目が離せません。

これからは中学生、高校生の動向にも目が離せません。

と言ふことでこれから湘南地区の選抜候補選手の練習会に行ってきます。

「ゲームの誕生直後は、屋内でも屋外でも一度に多くの人数がプレー出来る場所ならどこでも良く、しかもコートをラインで区画してなかった。」と水谷 豊先生(相棒の杉下右京を演じてる役者ではありませんよ(笑))著「バスケットボール物語 ’誕生と発展の秘話’」にこのように書いてあります。

バスケットボール物語表紙

と言ふことで 答えは「3」でした。

あなたは当たってましたかーーーー?

 

1896年には広さを1067.5㎡以上と定められ、1906年にはやっとコートのサイズも決められました。

その時はエンドラインは16.8で、サイドラインは21.8~27.5mの間です。

 

ちなみに人数は特に決めがなく、両チーム同数なら良い、とされてました。たまたま最初のゲームをやる時、18人だったので、2チームに分けたら9人だったので、その後9人が決まりみたいに思はれていたそうです。

なもんで50人対50人と言ふゲームも実際にコーネル大の体育の授業で行はれたようです。

1891年、バスケットはアメリカのマサチューセッツ州スプリングフィールドで出来たスポーツですが、ここで問題です。

 

最初にジェームス・ネイスミス氏が作った13の規則の中にコートの大きさについては書かれていませんが、どのように決められていたのでしょうか?

 

1)初めてプレーしたYMCAの体育館の広さが34×52フィートだったので、これがそのままルール化された。

2)当時も体育館の広さはまちまちだったので、体育館の広さがコートの広さとなった。

3)コートの広さは特に決めてない。

 

さあどれでしょうか?

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