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今日の対戦相手は43勝9敗 東地区1位の宇都宮ブレックスです。

相手にとって不足は有りません!!!

15勝34敗のチームが何を言ふんだ、って感じですけど(笑)

 

直近7ゲームのStatsを基にブレックスの強さの秘密を探ると、2個ありました。

1)ディフェンスの強さ <以下数字は1ゲーム平均>

得失点リーグ平均が79.8点なのに対し宇都宮は87.1得点、66.3失点。

その原因はリバウンドにあると思ひます。

ビーコルはリバウンドに関してオフェンス・リバウンド10.3個 ディフェンス・リバウンド24.4個 合計34.7個でリーグ平均の9.4個、23.9個、33.3個を上回っていますが 宇都宮は14.3個、27.0個とビーコル以上に大きく上回ってます。

オフェンス・リバウンドは得点に直結するし、ディフェンス・リバウンドは相手オフェンスを止めることになります。昔から「リバウンドを制する者が勝負を制する」と言はれていた通りです。

 

2)タイム・シェアが出来ている→得点シェアに結び付く

ビーコルで一番長いのはカーターの30.1分で、森川28.7分、チェンバース27.9分、アウダ26.2分と長時間プレーしてますが、宇都宮はスコットの22.0分が最長で、カーターとは8分も少ないです。それ以下もロシターが21.6分となってます。但し残りの8人が15分以上となり、上手く平均化されている、と言ふか誰が出てきても変わらず得点出来ることです。

日本代表の比江島や竹内公輔がスタメンじゃないってことです。メンバーが豊富なんですね!

さて対する我がビーコルは、ポイントガードで点も取れる生原がやっと復帰して、全員が揃いました。生原不在時は森井が頑張ってくれましたが、プレッシャーが掛かりすぎて、シュートが不調になってました。

得点に関して言へばカーターに変わってアウダが堅実にI/S(インサイド)で頑張りチーム・リーダーになりました。
そして嬉しいことは、森川と須藤が点を稼げるようになったことです。

森川のI/Sでの得点、特に最近は粘り強いステップでゴールにアタックしているのが良いですね。フェードアウェーや止まってからのステップインも良くて、2か月前に比べ試投数も若干増え確率も50%から68%と大きく増えています。スリーが不調でもI/Sの得点で稼げるようになりました。

そしてもう一人、地元港南中出身の須藤です。気持ちが吹っ切れたとかでスリーが好調です。

3月21日の宇都宮戦ではスタメン起用でスリーを1本も外さず11得点の活躍でした。

 

前回はタフなスケジュールで疲れが溜まって前半はボロボロでしたが、後半は見事にカンバックしました。

 

今回は宇都宮は先週末北海道で2連戦で直ぐの水曜日と言ふタフなスケジュールなのに対し、ビーコルはコロナの影響で先週水曜日と土日のカードが延期になったため十分な休養と練習が出来ているのが有利な点でしょうか?

 

宇都宮は先週の北海道②で終盤強烈な追い上げを食いながらも、やっと逃げ切りましたが、これが良かったのか??
もし負けていたら、安西コーチは絶対に猛練習させ、必死の覚悟でビーコル戦に挑むはずです。
勝ったことで選手達も「俺たちは強いから勝てる」と少し油断するのではないでしょうか???

今週末レバンガ北海道と戦う横浜ビー・コルセアーズですが、No.4ロバート・カーターの加入、No.46生原秀将の復帰、最後に特別指定選手の河村勇樹の加入でやっと全員が揃った、と言ふ感じで、これから面白くなります。

今回は開幕から10ゲーム目でカーターが加入し、その辺りから潮目が変わってきたので、カーター加入前をBefore Cater(BC)とし、直近8ゲームのスタッツと比較しました。

尤もシュートと得点関係は一度書いているので、それ以外について、良くなった部門を取り上げます。

 

入口として得失点について、得点が増えているのは当然として、失点も大幅に減っていることを再確認して下さい。

得点増の一因にスリー(3点シュート)が挙げられますが、元々ビーコルはスリーが得意といふか、スリーしか無かったチーム(^^;

そのアテンプト(撃ってる数)が3本ほど増えました。大雑把に言ってスリーの確率は1/3。と言ふことは入ったスリーが1本増えた、つまり3点多くなったと言ふことですね。スタッツの数字は注釈が無い限りアベレージ(1ゲーム平均)です。

 

アシストが3.8本も増えてますね。最近まで手渡し(ハンドオフ)と言ふレベルの低いオフェンスでしたが、ピックアンドロール(P&R)でパスが増えたことも一因です。

P&Rに関して言ふと、今まではI/S(リング付近)へロールする選手(ブロックに行き、ドリブラーが通過したあとリング方向へ動く)へ素直にパスしてましたが、そろそろ相手に対策を立てられそうなので、I/Sへのパスでは無くウイングへパスしてスリーを撃たせても良いのでは、、

昔NBAジャズのP&Rの名コンビ、ストックトンXマローン・デュオは後年になり、マローンへでは無く右ウィングで待ってるシューターのホーナセックへパスすることが多くなり成功してました。

ビーコルもNo.22秋山皓太にスリーを撃たせるのも良いのじゃないでしょうか?

 

アシストについて言ふと、河村の加入と生原の復帰で得点に結びつくパスが多くなったことが最大の理由でしょう、2人で7.4本ですからね!

 

ターンノーバー(TO。ミスで相手ボールになること)が半減しましたね。カーターとPG2人の加入が大きいですね。BCはNo.1パトリック・アウダとNo.7レジナルド・ベクトンの二人が中心でNo.10アキ・チェンバースとNo.18森井健太が多かったですね。基本的にTOはボールを持っている時間が長い選手は多くなる傾向が強いので、、、
外国籍選手の2人が多い訳は、他の日本人の得点力が無いため、自分たちが得点しなければいけない、と言ふ気持ちが強すぎてボールを持ち過ぎてたのかもしれません。

カーター加入で外国籍選手の負担が軽くなり、ボールコントロールするPGも3人になったので負担が軽くなったのでしょう!

 

ファール(パーソナル・ファール。身体接触によるファール)が少なくなりました。

ビーコルでファールする選手と言へば、ブースターさんだったら誰もが指摘するのがNo.7レジナルド・ベクトン君!! (笑) ファールアウトは26ゲームで8回!!

そして森井です。PGと言ふポジションなので、頭を使ってワザとファールしたり、スティール狙いの手元が狂ってファールを取られることがありましたね。生原も同じですが、多いですね!!!

主力選手はファールしないように注意してもらいますが、ベンチの選手は出場時間が短いので、頭を使った有効なファールは求められます。

 

良い所ばかりを書き出しました(笑)

でもここで書いたように、今のビーコルは良い方向へ向かっていると思ひます。

1か月前ならとても書けませんでしたが、今なら宇都宮、千葉、渋谷、秋田、富山、琉球、川崎と言った強豪相手でも対等に戦えるのではないでしょうか?!?!

ミニバスケットボール(以下ミニバス)の新しいスコアシートが出来た!!

<勝利至上主義の方はお読みにならないで下さい!!!>

 

私はミニバスってバスケの入口とか玄関とか思ってます。

ここでの記憶が将来にわたってバスケに対してのイメージになってくると思ひます。

 

だから「勝った負けた」だけの記憶であって欲しくないのです。

上手い子も居れば下手な子もいっぱいいます。

子供達を評価するとき、どうしても記録に頼りがちになると思ひますが、それだと上手い子だけが評価されます。

それで良いのだろうか?

そう思っている指導者も多ひと思ひます。

上手い下手だけなら通常のスコぺ(スコア・ペーパー又はスコアシート)の得点欄だけで充分。

少し進歩するとフィールド・ゴール(野投。試投の事は専門的にはField Goal Attempt。シュートが決まるとField Goal Made)やリバウンド、アシスト等を記録して、後半や次のゲームに役立てたりします。

それはチームの役に立っても、ミニバスの子供達に役立っているのだろうか?

上手い下手だけが評価の対象なのだろうか?

 

それで良いのかな?

と思ったのが「躍心JAPAN」の河合 義徳さんで、そしてそこに協力したのが牧野 淳さん。

速攻の時、一生懸命に走ってフォローアップしたこと、プレスされた時にチームの約束通りに中継に上がったこと、ボールマンじゃない人へのディフェンス・ポジションをしっかりと守ったこと、、、

プレーばかりではなく、ベンチでしっかりと声を出していたこと、タイムアウト時にベンチを直ぐに空けたこと、団扇で選手を仰いであげたこと、チームメイトに声を出して指示を教えたり徹底させたこと、ゲーム終了後に率先してベンチを空けてキレイにしたこと、相手チームや応援団への挨拶をしっかりやったこと、、

 

つまりコート内でのゲーム中の振る舞いだけでなく、試合前後の選手の態度や、ベンチでの子供たちの言動の全ても評価の対象にするものです。出来た毎にチェックしてあげます、1個だけで終わりではありません,何個でも付けてください。

また保護者や観戦マナー、ベンチマナーについても、採点します。

相手のミスプレーを囃し立てるようなことはNGです。

 

これらをチェック(採点)するのはコーチだったり保護者だったりOBだったりします。大人だったら誰でも良いのじゃ無いでしょうか?

大人じゃなくてもOKです!!

通常は数人で行ひます。躍心JAPANでは4人で付けているって言ってました。

相手チームも採点する場合は、公正を期すために前後半でチェンジします。

 

ただこれの難しい点は採点基準です

厳密な基準は有りません!!

採点者が「良い行いだ!」と思ったら記入してください。

それで良いのです。何回も繰り返し改良して、チームなりの基準を作れば良いのです。

それが制作者・河合さんと牧野さんの考え方ですから。

詳しくはこちらを

https://kawai.goat.me/gqdtiwGoyQ?fbclid=IwAR1_JZcto4moU5Qd-X7h04dhSyzmsYAxgircmWSeKkNTUWgUN89OPNgtYrw

 

スコアシートはこちらからPDFでダウンロードできます。私も僅かながらお手伝いしてます。

躍心JAPAN式スコアシートVer.2.0.1

‘67年11月から始まった日本リーグですが、この年のオールジャパン(全日本選手権大会とか天皇杯、皇后杯とか名称が多くて面倒くさいですね。統一して欲しいものです、せめてメディア内だけでも)の男子では、決勝リーグ(この時代は4ブロックに分けトーナメントを行ひ、その4強でリーグ戦をしてました)に進出したファイナル4(4強)は男子日本鉱業(鉱業)、日本鋼管(鋼管)、日本大学早稲田大学。女子 ニチボー平野日本勧業銀行、日本体育大学、日本レイヨンでした。

住友金属(住金)はブロック決勝で日大に47-54で敗れ、松下電器(松下)に至っては1回戦で鋼管OBに54-55で敗れています。確かこのゲームは見てましたね、気楽に戦えた鋼管OB(特に引退したての若手?)の出来が良すぎた筈です。

と言ふことなので、当時は全日本級については素人状態の私にとって、住金も松下も殆ど知識がない状態でした。学生の大会はそこそこ見てはいましたけどね、、

 

それがいきなり松下が優勝してビックリです!

MVPの戸田正久って誰?(笑)

から始まって、ひょろっとした193㎝の大和久生さんは同志社大出身なので、まるっきり判りませんでした(^^;

そして下野昭年(183㎝中央大)の3人が得点源でした。

大和さんが最長身でしたが、ゴール下だけじゃなくペイント内のシュートが得意だったような記憶があります。

上写真 松下・大和選手 ルーキーでした

引退後は日本実業団連盟(日本実連)で一緒にお仕事して、可愛がってもらった戸田さんは、ペリメーターが得意なシューターだった筈です。

残念ながら戸田さんの写真が見つかりません(涙)

松下は2-3のゾーン・ディフェンスが得意とイラストに書いてありました(笑)

優勝はしたものの、関東人の私にはそれほど興味が湧いてなかったチームでした、ごめんなさいm(__)m

 

6勝1敗で松下と同率ながら直接対戦で松下に負けている鋼管は2位でした。優勝候補#1でした。

若林薫(178㎝東京教育大)さんはクレバーでBBIQが高く冷静なPGでしたね。難局面でもこの人ならどうにかしてくれる、と思へる選手でした。

上写真 若林さんの速攻からのパスです。

良いPGと言ふとパスが上手くて、と言ふ印象ですが、若林さんはスピードもあり、シュートも上手い選手でした。ローマ、東京と2度のオリンピックと世界選手権、そして数多くのアジア選手権やアジア大会に出場して、この年のナショナル・チーム(今で言ふ日本代表)のキャプテンでした!

顔も渋くて、いはゆる「玄人受け」する選手でした。

そして私の憧れの選手でもあり、引退後に鋼管のコーチに就任した時、連載の技術解説をしてもらいましたが、私が担当になり毎回話を聞きに行くのが楽しみでした。

 

得点面のスターと言へば諸山文彦(186㎝日本大)さん、通称「モロさん」です。
初代ミスター・バスケットと言はれた人で、端正な顔立ちと、奇麗なシュートフォームで、幅広いファン層を持ってました。日本バスケ界では超有名な選手でした。

下写真 諸山選手(この大会の写真ではありません)

退職した現在は神奈川県の某病院の理事を務めているとか、今もシニアのちーむでプレーしてるとか聞きます。ただゲームになるとレフリーに文句ばかり言ってると、あまり評判は良くありません(笑)

現役中はクラッチ・シューターではありませんでした、大事な場面で決められなかったことは何度かありました(笑)

しかしミュンヘン・オリンピックの最終予選だったと思ひます。

東京で行はれましたが、決勝戦は韓国との対戦で、代々木第2体育館は両国の応援で凄い熱気の中でシーソーゲームだった筈です。

同点か1点ビハインドで日本最後の攻撃で、モロさんが右ウイングからジャンプ・シュートを撃ちました。その瞬間 私は「ヤバい!」と思はず叫んでしまったのです。

想像通りボールはリングに蹴飛ばされましたが、そこに飛び込んだのはモロさんでした!!
シュートの軌道を見て反射的にリバウンドに行ったのでしょう!

ボールが上手く帰ってきたことも有りモロさんがしっかりと掴んでそのままシュート。

それが決まって日本が勝利してオリンピック出場を決めました!

(もしかしたらゲームが間違っているかもしれません(^^;

ただ一番大事なゲームで決勝点を入れたことは間違いありません!!)

他にはシューターの平山輝武(175㎝日本大)と木村勲(176㎝早稲田大)が居て、渋いフォワードの野添敬四郎(182㎝明治大)さんも地味に活躍してましたね!
今で言ふシューティング・ガードまたはスモール・フォワードに粟野吉洲(182cm東京教育大)さんが居て地味に外から得点してましたね。今は鎌倉市バスケットボール協会の会長をしていて、以前はコーチしていたことも有り、中学の大会には良くお見えになります。

その時は良くお話します、通常は「粟野さん」と呼んでますが、話が弾んで「粟ちゃん」と呼んでしまうことがあります(笑)

 

三井生命

会社が大手町にあり、練習場は柏だったと思ひます。

丸山好子(167㎝)さんのシュート力頼りみたいなところがありましたが、基本はディフェンスのチームでしたね。

主力の浅川乃扶子(163㎝)さんが東京の関東高出身と言ふことも有って仲良くしてもらえました。他の方も大手町勤務なのでさばけた方も多く、チーム全体で良くお話はしてましたね。

興銀同様能力の高い長身者が居なかったので、成績は今一でしたが、ニチボーに一番接戦したのは三井でした。

男女ともに日本リーグ入りしたのは三井生命だけでした!

 

東京芝浦電気(以下東芝)

東芝は川崎駅前周辺に町名の着いた工場が沢山あり、各工場でバスケ・チームを持ってました。男子は東芝小向工場チームが強く、会社を代表するチームでした。

たしか柳町工場だったと思ひますが、女子は柳町工場の道を挟んだところ、今のブリリアタワー川崎の辺りに体育館と合宿所がありました。

主力は横山あさ子(168㎝、世界選手権メンバー))で、外のシュートも上手いし、ドライブするのも早かった記憶があります、同い年だったことも有り話しやすい性格だったことも有り、良く話しては居ました。

そしてもう一人はチビの豊川スエ(156㎝位)。天才シューターと言って良いほどシュートが上手かったですね。

いつのゲームだか、相手はどこだか忘れましたけど、競っていた終了間際にハーフ・ラインの端っこに追い詰められ、自分より大きい選手にWチームされながらもジャンプシュートを決め、同点だか逆転勝利をおさめたと、朧げな記憶があります。

ゲーム後に話を聞いたら、元々目が悪くてリングはハッキリとは見えなかった、と言ってたのを覚えてます(笑)
スエちゃんはその後東芝を引退後 安城学園大へ進み、天才的PGの平塚美佐子とコンボ・ガードを組み‘71年第17回インカレで優勝しています。たしか50過ぎ迄 区民大会に出場してましたよ。

監督は世界選手権時に監督を務めたことのある桜井さんでした。

 

日本レイヨン

京都のチームでしたね、その後「ニチレイ宇治」と変わりました。

エモさんと呼んで居た江守良子(160㎝、世界選手権メンバー)さんはスピードこそなかったけどシュートが上手くバスケIQが高いPGでしたね!
小太りだったことも有り、そのころから田舎の気さくなおばちゃん風で、良く話してくれました!

そこにフォワードの角谷(166㎝、世界選手権メンバー)と門脇(166㎝)が得点してました。選手は会社の方針なのか、有名校や全国大会で目立った選手位は居ませんでしたが、ディフェンスを頑張り、全員が得点できる纏まった良いチームでしたね。

関西だったのでなじみが少なかったのが残念でした!

日本リーグでは5位でしたが、全日本総合選手権では女王ニチボーに2点差の好ゲームで準優勝してます。

コーチは栗山さんでした。

 

 

日本通運

浦和に体育館(合宿所)があり、何度かお邪魔したことがあります。たしか浦和駅の西方に有った別所沼の辺りだと思ひます。
東京オリンピックの会場に埼玉県の熊谷だか大宮がなっていて、そこを繋ぐ為の道路、所謂オリンピック道路が実家の近く練馬区谷原から出来ていたので浦和には簡単に行けたからです。半世紀前ですから畑ばかりなので用地はたっぷりありましたから広い道でしたね!

 

元々は埼玉県は浦和女子高、川越女子高等高校までは強かったのですが、強豪校は進学校でもありそのまま上へは繋がらず実業団チームも無かったため、体育協会が「県内に強いチームが必要」と言ふことで日通に頼んで出来たチームと聞いています。創部した年に国体で8位になった、とどこかで読んだ記憶がります(^^;

チームとしては、強豪高から有名選手をリクルートするわけではなく(強くなかったし、会社もそれ程力を入れてなかったようでした)、そこそこの力でしたね。

記憶は薄いのですが、草間典子(163cm)さん、稲葉康子(163㎝)さん、奥原さん、中山さんあたりが活躍していたと思ひますが、このチームに欠かせないのは、細くて明るいことからオリーブと呼ばれていた前川和子(173㎝)です。

現在では笑われそうですが173㎝と言ふ長身でゴール下を頑張っていました。運動能力も高く走れて動けた程で、その能力を買われ中学卒業でいきなり実業団入りしています。
コーチは石橋 晃さんでした。

部長の田中さんが良い人だったことも覚えてます!

 

三菱電機名古屋(以下三菱)

現在も三菱電機コアラーズhttp://www.mitsubishielectric.co.jp/basket/koalas/index.html として残る唯一のチームです。家電業界で三菱電機と日立は会社として強い、と東芝の関係者が言ってましたが、その通りですね。

このチームは伝統があり、64年の世界選手権大会に単独チームで参加している実績がある。たしか浅野さんと言ふ会社だか工場内での実力者の後ろ盾が居て強さを保っていました。

ただ名古屋のチームの上、この頃はそれほど強くなかったので、接点は少なく、親しくはしてませんでした(^^;

島田(160㎝)中心のチームだったと思ひます。吉沢(160㎝)も名前はおぼえてますけど、、

小川(167㎝)がフォワードで点取り屋さんだったような(^^;

 

◆第1回大会の結果

優 勝:ニチボー 7-0

準優勝:勧業銀行 4-3

3 位:興業銀行 4-3

4 位:三井生命 4-3

5 位:日本レイヨン 4-3

6 位:日本通運 2-5

7 位:三菱電機 2-5

8 位:東芝   1-6

 

◆記者投票 ベスト5

・柳 登美子 (ニチボー)

・新垣 たけ子 (勧銀)

・黄 蘭子 (ニチボー)

・前田 洋子 (ニチボー)

・横山 アサ子 (東芝)

#バスケ日本リーグ
#第1回バスケ日本リーグ女子

#ニチボー平野

 

「女子については次回に」と前回書きましたが、男子ももっと書きたいことがありますが、とりあへず女子について。

 

その前に、前回日本リーグに対し 若干間違った書き方をしたようです。イラストには次のように書いてありました。

「このリーグは第22回全日本実業団選手権大会を兼ねたものであり、日本リーグ男子8チーム、女子8チーム選出は、11月1~3日の間、男子32チーム、女子24チームの参加のもとに予選リーグを行い決定したものです。」原文通り。

 

女子と言へば、やはり尾崎正敏監督率いるニチボー平野ですよね。この時まで国内150連勝ほどしてました、正確な数字は覚えてません(^^;

ニチボーと言へば貝塚の女子バレーを思ひだす人もいるかもしれませんが、バスケは平野ですよ!
1968年まで「国内公式戦171連勝」してますからね!!

その原動力はやはり早稲田大出身の尾崎さんですね。この後女子ナショナルチーム(日本代表チーム)を‘75世界選手権で2位に導いた名匠で、忍者ディフェンスと言ふオールコート・プレスで世界に恐れられた監督です。

そう言へば「マッハ攻撃」と言うスピードある攻撃も武器で、‘76年モントリオール・オリンピックでUSAを破り5位になりましたからね。尾崎さんはゲーム後も良く話をしてくれました。当時にしてはメディア対応の重要性を判っていた監督ですね!

ニチボー平野(以下ニチボー)はセンター柳登美子(178㎝、左写真No.4)さんともう一人のセンターで発展途上の黄蘭子(182㎝)がインサイドでの得点源となり、外からは小さい前田洋子(159㎝、下写真No.6)と坪井(165㎝)のシュートとスピードある攻撃とディフェンスの強さが武器でした。

 

黄は天然が入った可愛い子でインタビューもちゃんと答えていました。一番話をしたのは前田で面白い子(年上だったかな?)でしたね。話が出来るのはその2人位でしたね。

 

 

 

 

さてさてニチボーですが、関西と言ふことと強すぎて近付き辛いと言ふことも有って、それほど仲良しではありませんでしたm(__)m
ニチボーはバレーの貝塚張りの豊富な練習量と強いディフェンスが持ち味で、ダントツの強さでしたが、若い私には一寸近寄りがたチームでした。

ナンでも尾崎さんがバレーの大松さんと張り合っていたって聞いたことはあります。

本来はこのチームに もっと私から話し掛けなくてはいけなかったのでしょうけど!

ただ数年後に女子ナショナルチームの合宿に行ったときに、結構ニチボーの子達と話していて、その後は良いインタビューが出来ていたような気はしますが、、、

 

関東では、日本勧業銀行(以下勧銀)の岡田さんは当時にしては珍しく大学(安城学園女子短大)出身でのためか、愛想が良いと言ふわけではないのですがよく話してくれました。上手いPGでしたね。同じ安城短大卒の175m新垣たけ子(下写真、白ブロックしている選手)さんとも喋りしましたね、当時は珍しい沖縄出身です。


銀行と言ふ性格上、当時は高卒が多い中で、大卒者が多いのも特徴でしたね。この数年がキーポイントだと思ひますが、、、

 

コーチは従野先生は学習院高の先生をしており東京教育大出身と言ふことも有り、良くしてくれました!
先々シーズンには、教え子の中川ひろ子の息子で確か島根に居た横尾くんの応援で中川と一緒に国際プール(?)へ応援に来てくれました!

 

日本興業銀行(以下興銀)はキャプテン下田さんを始め諸岡さんや小高のように気安い東京出身者が多かったですね。安城出身の浅野、太田瀬と言ふ上手い選手が中心でしたが、スタメンには最長身168㎝と長身センターが居ないのが辛かったですね。スタッフに知り合いが居たためか、結構選手達とは仲が良かったですね。

銀行員と言ふ性格なのか、ガッツ剥き出しの選手が少なかったですね。
勧銀同様 大学卒選手が多くなりました、主に安城学園大ですが。

東京オリンピック日本チームのヘッドコーチをされて居た吉井四郎さんがコーチしていて、ディフェンスが良い面白いチームでした。

そう言へば小高ふっこちゃんとはデートしたことがあったっけ!!(笑)

 

今回はここまで

次回は三井生命、東芝、ニチレイ宇治、三菱電機名古屋、日本通運について書きます。

勧銀のコーチ名を間違えていましたので、訂正しました。

日本リーグの話をします。

今の人には日本リーグと言ってもピンとこないでしょうが、年寄りは直ぐ判りますね(笑)
現在のBリーグ+WJBL つまり日本の男女合同トップ・リーグといふことです。

 

私がこのバスケ業界に足を突っ込んだのは月刊専門誌の「Basketball Illustrated」誌の編集の手伝いをしたことから始まったと前々回に書きましたが、それは1966年でした。

この‘66年と言ふのは「日本リーグ」が出来る前年で準備期間でした。そして私が本格的に編集に携わるようになったのが’67年。この日本リーグが始まったのが1967年、つまり私のバスケ人生とスタートが一緒なので、思ひ出深いものがあるんです

 

夏には東京ユニバーシアード大会がバスケの聖地と言はれた国立競技場代々木第二体育館(以下 代々木第二体育館)で行はれ、11月4日その代々木第二体育館で第1回バスケットボール日本リーグが開幕しました。

 

元々は日本バスケットボール協会(以下 日本協会)と日本実業団連盟(以下日本実連)が共催していた日本実業団選手権大会が‘47年から開催(‘57年に「高松宮杯下賜」となる)されていましたが、サッカーが’66年、バレーボールが同じ‘67年に日本リーグと称し、ちょっとした日本リーグ・ブームに遅れまいとリーグ化したわけです。

 

実連と言ふのは、地方実連がありその総まとめが日本実連ですが、日本リーグ出場チームを決めるため‘67年11月1~3日、つまり開幕の前日まで大会を行っていました。

東北、関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州の各地方から代表チームが集まり男子は各6チーム8ブロック(計48チーム)に分かれ、女子は各3チーム8ブロック(計24チーム)でリーグ戦を行ひ、各ブロック上位1チームが日本リーグへの参加を決めたようです!!

そのチームは

◆男 子

日本鋼管(→NKK→JFE。通称鋼管)、日本鉱業(現JX金属。通称鉱業)、三井生命(現大樹生命)、大和証券、東京海上(以上関東)

松下電器(現パナソニック)、住友金属(→新日鉄住金→日本製鉄。通称住金) 以上近畿

八幡製鉄(→新日本製鉄→新日鉄住金→日本製鉄) 九州(多分)

♥女 子

ニチボー平野(→ユニチカ山崎→ユニチカ)、日本レイヨン(→ニチレイ宇治→ユニチカ宇治) 以上近畿

日本勧業銀行(→第一勧業銀行→DKB→みずほ銀行)、日本興業銀行(→富士銀行→みずほ銀行)、三井生命、日本通運 東芝 以上関東

三菱電機名古屋 東海

合計16チームで始まりましたが、現在も存続しているのは女子の三菱電機名古屋だけです。

ほか15チームは全て休部(廃部)となってしまいました。

寂しいですね!!
日本リーグ開幕のタイトルを見開き2ページで。このあと8ページに渡って特集してます。
この頃は196㎝で最長身でしたから、日本人は身長が伸びましたね!!

 

イラストも出来たばかりで、尚且つ持ち逃げされた後(笑)なので資金力は無いため、もっぱら東京を中心とする関東リーグ(実業団も学生も)を中心に取材してました。

その上男子は全日本選手権大会では鋼管か鉱業のどちらかが優勝していたので、関東しか眼中にありませんでした。

 

女子は流石に「ニチボー平野」が国内で連勝を続けていたので、尾崎監督率いるニチボーが強い、と言ふことは知ってました。

 

実はこの直前に国体が開催されていて、一般男子(現青年男子)は各県1チームで神奈川県代表で日本鋼管が出場 ←反則です!

と言っても決勝の相手は大阪府、松下電器なので、お互い様(笑)

47-46の1点差で鋼管が優勝しました。

女子はニチボーは出ておらずニチレが日通を下して優勝しました。

因みに高校の部では男子は秋田県能代工業高が女子も秋田県大曲高が優勝してます。当時は学校単位の出場だったようです。

 

さて第一回目の日本リーグ、男子はベテランPG若林を中心に諸山、木村、平山等のスター軍団+地味な野添、粟野・鋼管と、曲者PG児玉がリーダーに見えて実際はしきていた志賀やシューター中村、そして当時は日本最長身(196㎝)小玉、角田コンビ、もう一人シューター岡山さんもいた鉱業。

それと私の憧れだった江川(エガチョン)さんの居る八幡製鉄が中心になると思ってました。

大体住金や松下って知らなかった(^^;

 

女子については次回に

前回はファッション・オブ・ファイブ(FOF)についてもちょっと中途半端でしたね。

こんな原稿も書いてました。Vol.7,No.11(1973年)にはハーフスリーブのゲーム用ウォームアップについてです。
大分イラストが上手くなりました(笑)


いかにもバスケ的なデザインですよね、

私はこの「バスケらしさ」を大切にしてましたし、それを日本のCager(バスケする人)に知って欲しくて書いていました。

このデザインで言ふと、裾は絞らずストンとして、襟はニット(編み物)ではなくジャケットと共生地で開襟シャツ風のバイロン・カラーで、ラインが襟、袖先、裾周りに入ります。これでバスケらしくなるって訳です。

と言ふことを書いてました!!

 

誌上でのファッションの話はここで一区切りつけます。

 

再開第1号で書いたアメリカのバスケについて少し書きましょう。

私がアメリカ全体のバスケ話の連載コラムを持ったのはVol.2、No.1(1967年3月号)からと書きました。そこではカレッジ全般について書いてました。

例えば仕組みとして、全米を8Districtに分け、その中に6個ほどのConference(地区別リーグみたいなもの)がある。

全米大学チャンピオンを決めるNCAAトーナメントへはDistrictではなく全米を4Regionに分けてその中でConferenceの勝者同士がトーナメント戦でチャンピオンを決める、と書いてます。

半世紀前にしては良く書いたものです(笑)

← 多分日本で現存する最古のバスケ専門マガジン。

沢山勉強させてもらいました。

 

なお当時の伝統大学はデューク、カンザス、ケンタッキー、ミシガン、サンフランシスコ、UCLAで67年はルー・アルシンダーが居るからUCLAが優勝するだろう、と書いてます。←正解です!!

身長のことも書いてます。この年の学生Top200人の内、2mを越す選手が50人程で、セブンフッター(213㎝以上)は6人程と書いてます。
現在なら逆に2mを越さないのが50人程、でしょうね。

アメリカでも身長は年々伸びているのですね。

面白いのは、Conferenceの紹介で「IVYリーグ」を紹介してます(笑)
当時はアイビー・ファッション全盛と言ふことがあり、更に数年前にビル・ブラッドレーが居るプリンストン大がファイナル4で3位になった、と言ふことがあったのでしょうね。こんな弱いカンファレンスを引き合いに出して、、、(^^;

 

それを受けて次号Vol.2No.2ではNBAについてカレッジより3ページも多い7ページにわたって書いてます。何しろNBA人気はカレッジ人気に負けているとは知らなかったものですから(^^;

当時は未だ10チームしかなく、東西2DIVISIONSで下記のように分けられていました。

Eastern

ボストン・セルティックス、NYニッカーボッカーズ(ニックス)、シンシナティ―・ロイヤルズ(現サクラメント)、フィラデルフィア76ers、バルチモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)

Western

LAレイカーズ、サンフランシスコ・ウォリアーズ(現ゴールデン・ステイト)、デトロイト・ピストンズ、シカゴ・ブルズ

そして各Division上位3チームによるトーナメントの勝者どうしてNBAチャンピオンを決めると書かれてます。

昨シーズンはファイナルではセルティックスとレイカーズの対戦となり、3勝3敗で最終戦を迎え95-93の1ゴール差でセルティックスが勝ちチャンピオンになったと書いてます。

当時はシカゴもデトロイトもWesternだったのですね!

なを当時の個人シーズン最高FG%(当時スリーポイントは有りません!)はウィルト・チェンバレンの55.0%で、1ゲーム個人最高得点は同じくチェンバレンの62点と書いてあります、なんで100得点のことを書いてなかったんでしょうね??
まさか私がチェンバレンのことを嫌っていた(笑)から書かなかったのか、まだ調べていなかったのか? 不思議ですね!! (笑)

アメリカのことはその後も連載を続け、その後サンフランシスコ・クロニクル紙(https://www.sfchronicle.com/)の日本特派員になったマイケル・バーガーさんに引き継ぎ、その後は共同通信社の竹市さん、最後は帰国子女の西尾昭彦さんとなりました。他にも日刊スポーツの工藤さんも書いていたことがありましたね。

左の写真 初めて表紙のイラストを描いた時のものです。

 

1973年頃からは産経新聞の記者だった方が編集長になり月刊バスケも創刊され、多くの記者が書いており、NBAを始めとするアメリカの情報も入手しやすくなってきましたね。

そうなれば 私の役目はほぼ終了です!!

初めて書いたNBA話は「BILL RUSSEL」でしたが、 スポーツ界でも初と言えるスポーツ・ファッションの連載がNo.6から始まったと前々回に書きました。

当時はバスケ・ファッションってそれ程確立されてなかったものの、バスケやる人はお洒落でセンス良かったとひます、少なくとも他の運動部よりは。

とは言へ練習時のウェアはたいしたものは着てませんでしたね、ほんの少数派がポロシャツを着てた程度で、殆どは襟と袖先に別色のパイピング(伸縮性の高い生地で縁取りしたもので、生地が4重になり野暮ったい。

パンツも無地のサテン(ツヤのある生地)やユニフォームが古くなったもの。

そしてソックスと言へば、登山用の毛糸のソックスを履いてましたね。←私たちの世代のアルアルです(笑)

ユニフォームにしてもまるで天と地の差がありました。

それでも大学は立教大、日本大、日体大等々は脇にパネル(幅が太いライン)やラインが入り胸のチームロゴ等の2色使いで少しにぎやかさを出してましたが、日本リーグを始めとする実業団チームは地味でしたね。
また当時は現在のようにユニフォームのオーダーシステムは無く、既存の地味なシャツに胸マークをどう入れるかだけのオプションでした。

 

ところがアメリカの本を見ていると、全然イメージが違います。脇・首繰りにはラインが入っているし、脇もパネルやラインが多色で入っています。CONVERSEのイヤーブックには高校でも大学並みのデザインのユニフォームのチームが殆どで、見ていて羨ましかったですね――。

 

そこで、日本バスケのユニフォームやウェアの意識改革をしなければ、と言ふ考えで「Fashon of Five」と言ふコラムを作ったのです。と言ふのは嘘です(笑)

そんな高邁な考え方は無く、ただ単にファッションに関する記事を書いてみたいなー!って感じですよ、まだ二十歳前ですからね(笑)。

 

最初に書いたのはヘアスタイルのことで、次にTシャツ関係←当時はたいしたTシャツがありませんでしたから。

当初はそれほど調査もしてませんで、いい加減なことも書いてましたが(笑)

 

ユニフォームのデザインについて書いたのはVol.2 No.2で、NBAチームのデザインをイラストで描いてみました、今見るとチャチですね――(笑)

デザイン的には当時の日本とは大違いでしたのでこれは可成り反響を呼びました。

 

この辺りからユニフォームのデザインについて真面目に考えてきたと思ひます。

色に関しても、デザインに関してもバラバラだったので意識改革をしようと考えました。

上段右はサンフランシスコ・ウォリアーズ(現ゴールデンステイト・ウォリアーズ)のユニフォームで、胸側は「The CITY」と書いてありますが、当時サンフランシスコに金融の中心地があったことから英国のCITYを真似て付けた、とか聞いた記憶があります。円の中はゴールデンゲイト・ブリッジですが、当時は2本書いてありましたが、現在は片方の1本だけですね。
背中の番号は地元の名物ケーブルカーのシルエットの中に入れてあり、これでNBA最優秀デザイン賞を貰っています。

下段右はシンシナティ―・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス←カンザスシティ・キングス←カンザスシティ・オマハ・キングス) 地味ですがパンツの裾と脇が特徴があり、ルー・アルスィンダーが居たUCLAのオリジナル・デザインです。NBAも含め全米の半数近いチームがこのデザインになったほど流行りました。あのセルティックスもこうなりましたからね!

判り辛いのですが、レイカーズとニックスとロイヤルズのパンツが前開きになっているのです。これは古いタイプです。
当時は、前が開くのと開かないものが混在してました、過渡期だったんですね。
前開きのものはウエストにしっかりとバックルで止めるようになっていました。

ウエスト・ベルト部分のラインは、色違いのテープを縫い付けてあります。手間がかかってました。

 

今日はこの辺りで     to be continued

イラスト(月刊専門誌Basketball Illustrated)の続き その2です。

私は一応日本大学芸術学部美術デザイン科に通っていたので、既にいた清水さんや久保島君の二人よりは美的才能が有った(笑)のでレイアウトや挿絵なんかも担当しました。

勿論大会は取材に行きました。
バスケの聖地・代々木第二体育館へタダで入れるって、優越感に浸れましたね(笑)

 

私が初めて連載を持ったのはVol.1 No.5からでした、その時のNBAスーパースターのビル・ラッセルについて書いた「BILL RUSSELL」と言ふものです。

今は時効になっていると思ひますが(笑)アメリカのスポーツ雑誌を読み漁って、翻訳して書いたものです。

残念ながらこの号が見当たりません(^^;

日本で初となるアメリカ・バスケについての連載です。

そしてバスケ界ならずスポーツ界でも初と言えるスポーツ・ファッションの連載がその翌号No.6から始まりました。勿論執筆者は私です!!(笑)

今読み返せば恥ずかしくて、よくこんなチャチな文を書いていたものだと(^^;

でも日本初、もしかすると世界初かもしれません!!

1966年8月号,半世紀以上も昔のことです!!
これについては次回 書きます。

 

 

翌号のNo.7、9月号はインターハイ(以下IH)特集号で、私個人として初のIH取材どころか、IHへ行ったのは初でした。

この時、男子は千葉の習志野高、女子は安城学園女子短大付属高でした。


男子優勝候補は日大山形高と中大付属高で、女子は安城がダントツでした。習志野に関して言へば、偶々1回戦から見ていて、特に目立ったのは2年生の伊藤くらいで、ゾーンを使ったディフェンスで1点差や逆転勝ちが多く、期待はしてませんでしたが、あれよあれよと言ふまに決勝へコマを進め、ついにはその後大学で大活躍する今井、京谷や中村を擁する日大山形高を56-55で下し初優勝しました。

女子は小林、小栗、下総と言ふスーパー高校生を擁する安城が宇都宮女商に圧勝して初優勝しました。宇女商は翌年優勝してます。生井けい子は未だいません。

 

 

「BILL RUSSELL」は個人について書いたものですが、アメリカのバスケについての連載は少し遅れ1967年 Vol.2No.1 3月号でした、

題名は「ピーチ・バスケット」ネイスミス氏が発明し初ゲームのゴールが桃の収穫籠だったことから名付けました。

初回は大学について書いてますねー、偉そうに!!(笑)

今思へば、良く調べたものです。当時はネットもメールもないので、日本で販売しているアメリカのスポーツ雑誌等でしか調べることは出来ませんでした。だからこのコラムを書くのには100冊近い雑誌を買っていたはずです。

偶々編集部があった原宿はアメリカ人が多く、駅前のコープ・オリンピアの地下のスーパーマーケットにアメリカの雑誌売り場がありSports Illustrated、Sportや年1回発行するアメリカのバスケ本があったので、そこで仕入れていました。
銀座のイエナ書店もバスケやスポーツ関係が多かったのですが単行本が多かったようです。

今読んだら、間違いが結構あると思ひます(^^;

でも当時としては画期的だったはずだし、誰も間違いに気が付かなかったはず(笑)

 

このピーチバスケットの連載は長かったですね!

今日はここ迄。 To be contenued

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