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はっきり言って最近のカレッジは判らない→NBAドラフトも判らない(汗)
と言ふことでドラフトの歴史やら逸話を少し、、、
NBAは1946年にBAA(Basketball Association of America)から始まりましたが、翌47年には最初のドラフトが行はれました。
当時は未だ10チームしかなかった時代です。
The Official NBA Encyclopediaによるとドラフト欄にNegotiation Listと言ふのがありました、交渉権と言ふことですかね? もしかすると他チームの選手をドラフトしたようです。翌年は無くなってましたから、初年度だけの措置ですね。
この時はドラフトで5人、Negotiation Listで5人まで選べたようです。
その後も10人選んでますが、古いことなので順位の記録がありません。
衝撃だったのは50年です。
セルティックスは2順目でデュケスン大のチャック・クーパーを指名しました。彼こそアフロアメリカン(黒人)として、史上初めて指名された選手なのです。
ただ契約が一番早かったのは当時ハーレムグローブ・トロッターズに居たナット“スイートウォーター”クリプトンで、一番最初にNBAのコートに立ったのは、ゲーム・スケジュールの関係で指名順位が一番低かったワシントンのアール・ロイドです。皮肉なことです。
セルティックスがクーパーを指名して無かったら、どのチームも指名や契約はしなかっただろう、と言はれてます。
56年にTerritorial Choiseとしてボストンがトム・ハインゾーンを指名してるけど、それ以前にもこのシステムはあったような?!?
良く探したら注釈があった[笑]
地元大学生や地元出身者を前もって宣言するようです。そして1順目の指名となるそうです。このシステムは面白いですよね。
地域密着を目指すbjにはピッタリ、と思って河内に教えてあげた。その時は面白いですね、とか言ってたけど、実施されてないですね[笑]
私の勘違いで、テリトリー・チョイスは56年から始まったようで、毎年数名程度が選ばれ、65年ビル・ブラッドリー(プリンストン大→ニックス)とゲイル・グッドリッチ(UCLA→レイカーズ)でお仕舞いになりました。
このシステムのお陰で、セルティックスは56-57シーズンに大学のスター選手、ビル・ラッセル、KC・ジョーンズ(共にサンフランシスコ大)を獲得できたんです。但しラッセルはドラフトではなくトレードです。
このことを書いたら長くなるよ[笑]
「ディフェンスの神様」と呼ばれているラッセルですが、実はその当時の評価は低いんです、まだオフェンスの時代でしたから。
ラン&ガンで優勝を狙ったレッド・アワバック・コーチでしたが、その限界に気づき、ディフェンス主導のチーム作りに取り組みましたが、その核となる選手が欲しかったのです。
それが世間では長身と長いリーチで相手のシュートをブロックすることとリバウンドしか出来ないと思はれていたラッセルです←ちょっと大袈裟な書き方です[笑]
能力を見抜いてドラフトしようとしましたが、ガードのKCジョーンズも欲しい。しかしドラフト指名権は6位くらいでした。
幾らなんでも2年連続大学チャンピオンのセンターですから、その間に指名されるはずです。
そこで考えたのが2位指名権を持っているセントルイス・ホークス(現アトランタ・ホークス)との交渉です。
実はアワバックはセルティックス以前にホークスのコーチをしていたんです。だから知り合いの社長に掛け合ってトレードを仕掛けました。
と言ふのは当時セルティックスにセントルイス生まれでセントルイス大出身のエド・マコーリーと言ふスター選手が居ました。彼の奥さんは身体が弱い上にセントルイスに子供達と一緒に住んでいるので、彼はセントルイスに帰りたがっていました。
ホークスもマコーリーのリバウンド能力や白人と言ふこともあって商談が成立したんです。
とはいへ指名権を獲得しただけです。当時は他リーグやトロッターズがライバルで、オリンピック出場と言ふこともあって交渉が規制されていて大変だったようです。オリンピックからの帰りの空港でサインしたのは有名な話です。
ちなみに3月末にカレッジで優勝して、夏はオリンピックで優勝して、翌年4月にホークスを破ってNBAチャンピオンとなりました。13ヶ月間で3カテゴリーで優勝したことになります。
今日はここまで!!
結局ラッセルの話になってしまった[笑]
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